認知症の症状

取り繕い反応・場合わせ反応
おかしいなと感じたら、まず最寄りの医療機関へいってみましょう。

認知症の人と話していると、まるでその場で話を取り繕っているような感じがすることがあります。これを「取り繕い反応」といいます。少し専門的な言葉で説明すると、記憶が抜けてしまったところや、外からの情報を適切に処理・統合できないことに対して、とっさに機転を利かせた対応をすることをいいます。例えば、自分にとって良くない状況になった時、それを周囲に気づかれないような言動をとる、といったことがあります。これは、「周囲から取り残されたくない、周囲の人と何とかその場をうまく過ごしたい」といった気持ちからおこるものではないか、と言われています。ただ、この取り繕い反応は無意識にとってしまう言動なので、「うまくごまかそう」と考えてしているわけではありません。

また、後でも触れますが、取り繕い反応によって記憶の障害が一見目立ちにくくなってしまうのも特徴です。

本人からの情報だけで判断すると本人の状態を過小評価してしまうことになります。 例えば

  • 「もうお食事されました?」と尋ねられて
    「そうね、もうこの歳ですからたいしていただかなくてもね」
    (実際には食事はしていないが、食べたとも、食べなかったともとれる返答)
  • 「先日はどうもお世話様でした」と言われて
    「いいえ、こちらこそどうもお世話様でした。またお願いしますね」
    (実際には、何があったのか覚えていない)

というようなやりとりがみられます。

次に、このやりとりを「どうしてこのような返答をしてしまうのか」という気持ちを考えながらもう少し推察してみます。この気持ちと対応は、無意識のうちに行われているものと考えて下さい。

  • 「もうお食事されました?」と尋ねられて
    「そうね、もうこの歳ですからたいしていただかなくてもね」
    事実実際には、食事はしていない
    本人食事をしたかどうか分からない
    気持尋ねられたのだから、何か答えなければ話がおかしくなってしまう
    対応食べたとも、食べなかったともとれる返事をすることで、その場をやりすごす
  • 「先日はどうもお世話様でした」と言われて
    「いいえ、こちらこそどうもお世話様でした。またお願いしますね」
    事実回覧板を渡す時に、手土産を持って行った
    本人いつ、どこで、何があったのか分からない
    気持何かお礼を言われるようなことしたらしいけど、何があったか分からないなんて言えない
    対応一般的な挨拶を返すことで、場の空気を悪くしないようにする

実際の出来事を知らなかったり、具体的に詳細を確かめないと「取り繕い反応」なのか分からない場合が多いので、周囲の人はなかなか気づきにくいものです。それだけに、「記憶に障害がある」こと自体にも気づきにくく、食事の量が減って(増えて)いたり、定期的に飲む薬を飲んでいなかったり(飲みすぎたり)といった、健康を損なうことにも繋がりかねません。

私も時々、自分には分からないことを話しかけられた時に、それを知っていないと格好が悪いと思うと、あたかも知っているように話を合わせてしまうことがあります。また、体調が悪くても、それを隠して元気良く振る舞うことで、その場の雰囲気を損なわないようにすることもあります。

このような心の働きと言動がもの忘れと結びついた時、事実を知っている第三者からみると「取り繕っている」ように見えることから、「取り繕い反応」という表現を使うようになったのではないかと思います。事実を知っている人から見ると、腹立たしかったり混乱することもあると思います。でも、元々多くの人が日常的に行っている、人間関係を円滑にする術のひとつだとも言えるのではないでしょうか。

また、このような言動の根底には「場の雰囲気に合わせる」「周囲とズレないように」という気持ちが少なからずあり、人が社会生活を送るのにとても大切な心の働きを示しているように思います。

記憶がところどころ抜けてしまいながらも、何とか対人関係を保ち続けるための努力をするのは、想像以上に疲れると思います。絶え間なく気をはって相手を気遣うことが、家の外だけでなく中でも続いているのです。もし私だったら、特に心配をかけたくない相手…夫、肉親など身近な人ほど…の前では、「いつもの自分」であり続けることに最も労力を使うでしょう。もしかしたら、そのせいで疲れ切ってしまい、一人の時には顔を洗う気にも服を着替える気にもならないかもしれません。

そんな時、「最近、だらしなくなった」「この頃おかしいよ」なんて言われたら悲しいな、とふと思いました。

ところで、身近な人であれば「あれ?何だか事実と違うみたい」とささいな会話から気がつくことでも、たまにしか会わない人や時間を共に過ごすことが少ない人の場合、違和感を感じにくいことが多くあります。それは、それだけ多くの労力を費やして「会話を合わせている」ということでもあります。しかし、そのために実際にはどれだけ記憶や見当識などが障害されているのか、周囲の人は気付けないでいるかもしれません。そして、誰かが気付くまで生活のしづらさを一人で抱えて過ごすことになりかねません。もし私だったら、「会話を合わせている」ことや精神的な疲れを感じてくれていながら、現実に起こっている戸惑いや暮らしにくさをそっとフォローしてもらえたら嬉しいと思います。(HR)